昭和54年09月06日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
親がおっても親があるやらないやら分からない、そういう人達を指して無信心者、と言うておられるのだろうと思いますね。親がおっても親を親とも思わなかったり、又はあるやらないやらすら知らなかったり。これは私共信心させて頂く者でも、本当に私は無信心でございますからと言うふうに申しますし、もう私のような屑の子は無いと思いますと、やっぱそういう屑の子の自覚というものが段々出けて来て、結局無信心者という事になる訳でしょうけれども。
今日はそういう意味ではなくてね。親があっても親としわからずとね、又は親とも思うてもいない、そういういうならばおから、そういうやからです。だからに対する神様の切なる願いであり同時に頼みである。私共が天地金乃神様を親神様として頂いて、そして成程信心する者とない者は、親のある子とない子程の違いと仰せられるが、確かにそうだと親を実感させてもろうて、親のある子の幸福を感じさせて貰えるものがね、そういう沢山な親のあるやらないやらわからんでおる、いうなら迷える。
キリスト教にいうなら迷える羊とでも申しましょうか。親があっても親がおるやらおらないやらいるやらいないのやら、普通天地の中にそういう孤児的な人間がもう殆どだという事ですね。その殆どと言われるその側の人達に私共が、こういう素晴らしい親があるんだよという事を、私共が示していかなければならない使命感というものが、めいめいに出来てこなければいけないと思うんですね。
一人でも多くにそういう天地の親神様が、私共の上に氏子信心しておかげ受けてくれよと、手をつかんばっかりにして願うておられる。それでも聞こえない、それでも分からないでおる氏子に、少しはましな私共が分かった信心をもってです、そういう人達に語りかけていく、いうなら愛の心をもって示現活動に、いよいよ参画させてもらわなきゃならんと、いう事になるわけね。
昨日私は瀬戸というかな、この先生は教学研究所をなさっておられる方の、金光大神の信心についてという本を読まして頂いておったら、こういう意味の事が書いてあった。「教団が存在せねばならぬ意義」いいですか金光教がね、この世になからなければならない意義と、どうでもこの世に金光教がなからなければならない意義ですね。その確保のための布教がいる、その確保のための布教がいるという、社会の側から見ても金光教の価値を、とらえ直す事が必要だとあるですね。
社会の側、いうならば信心のない人達の側から見てもですね、金光教の価値というものがです、こんなに素晴らしいものだと言う事をですね、教団人自体が考え直すとらえ直す必要があるとこう、意味が分かったでしょうかね。このように金光教がなからなければならないという、なぜなからなければいけないかと。私は今日皆さんに聞いて頂こうとしておる事だと思うんです。
世の中にはもうそれこそ殆どの人がですね、金光教祖が言われる天地金乃神様が、ござるやらござらんやら知らない者もおるし、例えば理屈の上には知っておっても親を親と思わないという輩、そういう人達にです親のある者とない者の違いは、こんなにも違うんだよと、私共がおかげを受けて伝えていく、いうなら私共は使命感に立たなければいけないとね。その金光教がこの世に存在しなければならないという意義をね、確保のための布教がいると言っている。
これは社会の側からみても、いうならば信心のない者から見てもです、金光教の価値というものがこんなに素晴らしいんだよと、頂き直すという必要がいるこれは教団人自体が。私共金光様の御信心頂いてる者がです、金光教とはそこにもあります、ここにもありますという宗教とは違うんだ。本当は金光教がやっぱり世界全土に広がって、世界全土の者が親を親と立て親を親として頂いて、親のある子としての幸せを頂いて貰わねばならないま頂いて呉れよという神の願いが、この八節に感じられますね。
どうぞこの信心を広げに広げて言ってくれよと、いうならここで言われる和賀心時代を世界に広めていくというのです。広げに広げて私は今日は第八節というのは、そういう意味もあると思うです。八節広がりに広がっていく八の字のように、それにはなら金光教団人自体がです、瀬戸先生がここで言っておられるように、そういう素晴らしい宗教だという事をもう一遍ね、取組み直さなきゃいけない、そういう事を知らなければいけないとこう言っておる。いゃあ金光教よりか天理教の方はまぁだ立派であるとか。
とても仏教やらキリスト教にはかなわんとか、教団人自体がそういう事を思うたり言うたりしとる間はおかげにならんですね。私はここでもそれが言われる、金光教という信心は宗教以前の宗教だと、と言うふうに私が申しますのも本当に宗教以前の宗教だと、私共が確認しなければいけない、分からなければいけない。初めて金光教がそのような偉大な内容を持っておるところの宗教であり、神様の天地の親神様の願いが金光大神にかけられ、金光大神がまた私共にこのように伝えておって下さる。
皆さん金光教の信心は本当にそういうふうに、素晴らしいと皆さん思いますか、そしてまた思うなら、何処がそういう素晴らしい事かと分かりますか、それをいうならば折角御縁を頂いておる教団人自体がそこを頂き直し、金光教の価値というものをですね、とらえ直さなければいけない事に、現在教団がなってるという事です。そういうね教団自体がです、そういう素晴らしい信心だ神様だという事をですね、とらえ直さなければいけない。それでなら金光教の信奉者が、五十万なら五十万の信奉者の全部がです。
そのいうなら価値感と申しますかね値打ち、金光教の値打ちというものをです、分かった時にそれをいよいよ愛の心をもって、人に伝えていかなければならない。その伝え方であるなぜ金光教の信心をして、天地の親神様を親神様として立てていかなければならないか、そこに親のある子程の違いが生活の上にも現れてくるんだよ、という事を教えていかなければならないかという事になるのです。
それをまたなら合楽で申しますとね、今最近合楽の信心がという事は金光教祖の信心が、もういよいよ広い深いものになってきた。もう間口が広くなっただけでなくて、いよいよ深くなった。その事を今日私御神前で『紫檀、黒檀、かがやたん』と頂きました。これは大変意味が深い事ですからね。もう今までの過去の宗教というものは全部、もう紫檀黒檀までしか行かなかったんですね。例えば紫檀という事は、まぁしたい事と言うてもいいでしょう飲みたいと言うてもいいでしょ、食べたいというてもいいでしょう。
けれどもそういう事をしては、そういう物を食べては、そういう物を飲んではというのです。まこれは飲むとかするとか食べるとかという事だけじゃありませんけれどもですね、いうなら此頃から頂きますようにね、お道の信心はどこまでも、孔子が言われたという「小人閑居して不善をなす」と言う様な言葉があるが、金光教の信心は聖人とか君子、いわゆる聖をめざすのではない。どこまでも生神を目指すのだと。
生神その生神とはどういう事かというとね、「神様都都逸を歌わせ給う」という生神様なんだと、人間が人間らしゅう生きていけれるという事なんだと言う事。成程紫檀黒檀で黒檀という事はね、黒いという意味でしょうから、もう宗教すればそういう苦労の事だけに行き詰ってそこから先はなかったんです。今迄の過去の宗教はねえ。第一罪という事を申しましょキリスト教あたりでは、仏教では因縁輪廻という事を申します。輪廻説に入ったらもう堂々回りで絶対幸せにはなれない様になって来とるんです。
それはもう因縁だからとこう言う訳です、そしてならどういう事が罪になるかというと、あれも罪これも罪、いうなら原罪などを説き出したら、もう皆んなが罪人になってしまうんですキリスト教は。それをなら孔子じゃないですけれども、小人閑居して不善をなしておるからであります。ところが教祖金光大神はですね、そういう万に一人あるかないか分からないような聖人、君子を目指すというのではなくてです、どこまでも私共我小人の自覚なんだ。
今日の御理解でいうと我屑の子の自覚、閑居すればすぐ不善をなす私共なんだ、そしてそれを不善と思い込んでおって、その不善と思い込むところに、そこに罪が形成され因縁を作っていく事になるんです。だから助かりようがないです。日々生活さして頂くのに罪を作っていきよるでしょ、又因縁を作っていきよるでしょ、その因縁の為に苦しむでしょ、なら金光教に言うてもそうです、もう私の方はめぐりが深いから、難儀はもう当り前と言う様な事を言うでしょうが。
金光教のめぐりというものはそんなもんじゃないです。だから教団自体がです、もう一遍教祖金光大神の信心を見直さなければというのは、私は瀬戸先生はそうは言ってないけども私はそう思うです。今合楽で言われておるようなふうな、分かり方をしなければいけないと。今迄罪と思うておった、因縁と思うておった難儀な元は、只めぐりと思うておったがそれを思うという事が、自分の心の中に苦労を作っていくんです。黒檀です。分かれば分かるほど紫檀黒檀になってしまう。
だから金光教も或る意味あいでは、そこまでしか行ってなかったという事になるんですけれども。教祖金光大神はその奥の方の奥を説いておられる事を、お互いが気がつかなかったという事なんですね。めぐりというのはまぁ天地に対する御粗末御無礼が、前々のめぐりで難を受けおるというのであって、他の事はめぐりになる様なものじゃない。因縁とか罪とかと言うものとも勿論違うね。これは不思議なんですもう私の家はめぐりが深いからと言うたら、もうめぐりに何時もやられ通しにやられとかなんならんです。
もう私共は因縁だから是はもうこげな罪深い家だから、と言うから何時もそれこそ罪人の様な罪人の様な、何時も括られておる様な窮屈な生活をしなければならんのですね。今合楽で言われておる合楽理念に説く処の、いうならばめぐり説と言った様なものを、よく分からせて頂くとですね、小人閑居して不善をなすと思うておった、不善と思うておった事はそれは善であったと分かる事なんです。教祖はそこを説いておられる。それをこごではいうならば御事柄と頂いたり、御の字をつけて頂くと言う風に申しましょう。
むしろその事の対して御礼を申し上げなければならん。御礼を申し上げて飲んでよいのであり食べてよいのである物をです、私共ははぁもう牛肉食べたけんでもう酒を飲んだからと言う様な事で、自分という者を罪の意識の中に絞り込んでしまう、というのが過去の宗教なんですね。これから言うても金光教がいわゆる宗教以前の宗教という事なんです。特になら天地の事に対して、日柄方位を言う様な事なんかはもういよいよもって、もう笑止千万の事なんですけれども、それを誠しやかに本当の事の様に思うておる。
しかもその事をいう事自体がいうなら御無礼になって、前々のめぐりで難を受けおると仰しゃる。ただ言うならここだけですね難の元というのは。天地に対する御粗末です御無礼です。天地に墨金を引いたような見方考え方が、自分の物でもないものを自分の物のように思うたりする、そこん処が間違いと教祖は言っておられます。だからそこに気付かせてもろうて、なら過去の事は知らん事とは言いながら、御粗末御無礼天地に対するところの御粗末御無礼を、詫びれば許してやりたいのが親心と仰しゃるのだから。
こげな素晴らしい信心はないでしょうが、なぜって親だからです。もう一期いいません一期しませんとこう言うから許して下さる訳です。そして今迄不善と思っておった事が、素晴らしいおかげであるという、そこがかがやたんなんです。かがやたんと言う事は加える喜びと書くんです。今迄の信心の喜びにもう一つ喜びを加える。どうしてこういう有り難い世界が開けてきたであろうかと、私がここ十日ばかりもその事を思い続けておるです。合楽の信心を頂いてどうしておかげを頂くからじゃないですよ。
そういう事が分からせて頂いたという事が、まなんと有り難い事になってきたであろうか。今迄は不善と思うておった罪とか、これが因縁を作るのだろと思っておった事が、そんな事じゃないって。むしろ神様に御礼を申し上げなきゃならない事柄を、善を不善と言うておった思うておっただけの事だと。お互いが聖人とかね聖とかというものを目指すのじゃない、どこまでもね生きながら。
昨日研修ん時に或る修行生が、私親先生が昨日腹が痛まれたと言うので、ある意味でガツカリした訳ですね。親先生はとても腹が痛んだり頭が痛いという事はなかち、こう思うとった訳、もう神様んごと思うとった訳たい、所がお道の信心でいう神様は腹もせきなさりゃ頭も痛うなんなさる神様なんだという事ですね。教祖の時代に生神金光大神様という方は、もう一生亡くなんなさる様な事はないと、本気で思うておった信者があったという位ですから、まぁそれと同じような事をその修行生は思うておった訳です。
親先生が腹が痛みなさるちいうごたる事はなかろちこういうた、だからも本当にガッカリしたわけですね。けれども私が今日皆さんに聞いて頂くいわゆる、金光教の信心は聖人とか君子を目指すのではなくてです、いうならば生神をめざす。その生神とはね食べ物が悪かりゃ腹も痛い、風邪引きゃ頭も痛いという生神なんです。それこそ「神様都都逸を歌わせ給う」ところの生神なんです。それでいて人間の幸福の条件が段々段々、もう足ろうてくるという信心なんです。
そういう徳を受けたりする徳が、あの世にも持っていけるという信心なんです。勿論この世にも残しておけるという信心なんですね。だからそういう信心そういう神様をなぜ皆んなが知らんのかと、言うただけでは分かりませんからね。こういう訳だから信心をしなければいけないよと、私共が天地の信仰をする私共は天地信仰者ですね。そこでその天地信仰者のいうならば姿勢というものがです。昨日壮年部会でしたから壮年会の中でも、その事を話した事でしたけれども。
昨日北野の秋山さんがお導きしてお参りして見えられた、初めて参って来た。私初めてに対してこんな難しい御理解をして分かるだろうかと、ところがその御主人が昔或る教会に参った事があるという方でした。自分の頭が何かこうガンガンいう病気、娘は何か突然ですね何かてんかんのように倒れて、こう二階からでも落ちるようなその状態で、主人はこの頃仕事の方があんまり思うようにならんからと言ったような事で、お導きを受けた訳なんです。
それで今迄はそりゃあ貴方がたには家相が悪かけんばの、と言われたり仏様がさわってござるけんでと言われたり、も様々に迷うたと言う事が分かったんですけれども、こういう事を頂いた直後でしたから、これを書いてくり返し読んでごらん、と言うて読ませていくうちにですね、もう本当に成程と感じられた感じでした。もうなら薬は飲みません、もう御神米と御神酒さんを頂いていってと言うふうにですね、もう傾倒されていく様子がここから見える感じでしたね。
私はこう書いてやった。「天地の間に住む人間の生きる姿勢」ええですか、此処は覚えとかにゃいかんとこばい、天地の間に住む人間、天地の間に住んどらん人間があるでしょうか、天地の御恩恵を受けとらん人間があるでしょうか、天地の間に皆んなが天地の間にね、氏子おっておかげを知らずと御理解三節に仰しゃる此処なんです。天地の間にすむ人間の生きる姿勢、だから天地の間に住んでおる人間が、こういう姿勢をもって生きれば幸せになるという事なんです。そこで天の心が分からなければならない。
地の心が分からなければならないね。そういう姿勢をもってです、その姿勢の確立を目指すのがお道の信心だという事ですね。私は金光教の御信心はね、これだけを言うてあげたらいいのですね。それで分からんならば一時ばかり放任しておく事。分かってきたらいよいよ天地の道理、天の心地の心を細やかに話してあげる事。天地の間に住む人間がですね、天地の間に住む人間のいうなら生活の態度というか姿勢というものを、いよいよ確立を目指していくのがお道の信心なんです。
だからどうでも天地の心に添う生き方をね、なぜ勉強しなければならないか、それは天地の間に住んどるからだとこういうのです。そすと誰でもがそういう言うなら天の心地の心を、学ばせてもらわねばならないという事が、段々分かって来るだろうとこう言う。昨日壮年部会で、皆さんが大変有り難い発表をなさっておられましたが、久富正義さんが発表しておられました。もう本当にこげんおかげを頂いてよかだろうかと、もう有り難うして有り難うして、もう最近正義さんが言われる事は。
もうとにかく有り難うして有り難うしてと、もうとにかく後は言葉にならないんです。それで私はあのその後にこの、この方は宮の陣の方でしたかね、秋山さんが導いて見えたのは、その方に書いてあげた事をですあのう話した事でした。例えばなら久富正義さんという人が、あのう成程天地の心に適う姿勢で生活をしておる事業をやっておる、又はお道の合楽の総代として此処んところをふんまえての、一つの人間像というものを正義さんの中に私は見る事を感じます。
皆さんも御覧になればいいわけですね。もうこれで良いという事では決してありませんよ。けれども成程久富正義さんのような生き方、物の見方とらえ方考え方、出来るならばです成程有り難うして有り難うしてこげんおかげ頂いてよかじゃろか、と思うようなおかげが必ず健康の上にも、財の上にも人間関係の上にも頂け現れて来る訳ですね。だから昨日はこの事を塗板に書いて、そのまぁ皆さんに説明した事でしたけどもね、天地の間に住む人間お互いが、それを住んではおるけれども。
なら天地の間にお世話になっておることを、お世話になっておるとも思わず、親を親とも思わずいうならばね、天地の大恩を忘却した、忘恩の生活をしておる人が、もう地球上にはも殆どだという事なんです。その殆どの中にたった合楽で信心させて頂いておる、お道の信心させて頂いておる者が、少こぅしそこの道理が分かった。それをならこの教学者は言うておられますね。という事は金光教の価値というものはです、教団が存在せねばならない意義、この確保のための布教がいる。
だから合楽はここんところをふんまえて、布教しておると言う事が皆さん言えるでしょうが。だから教会の全部がです、合楽で言っておるような、いうなら合楽理念をもとにして、布教すれば間違いがないという事が言えるでしょうが。そう言う様にいうならば素晴らしい。教学者はそれから先の事はとらえておられないようですけれども、今日私が皆さんに聞いて頂いたのは、その教学者がこれから先の、今日皆さんに聞いて頂いたような処を、分かられてふんまえられたら素晴らしい。
成程金光教はもうとにかく他の宗教と比較するという程しのものじゃない、というふうな頂き方じゃなくてね、結局そういう宗教以前のものだと、いうならば紫檀黒檀かがやきたんなんだと、かがやきたんのところのいうならば、もう原始林のようなところを合楽では、開拓していこうとしている訳なんですね。今迄の宗教は紫檀黒檀で終わっとった、それをかがやたんにして行っておるのが今日の合楽。このことは皆さんよおく一遍ねってみて下さい、自分で自分なりに考えて下さい。紫檀黒檀かがやたん。
今日私今朝から頂くのはそうでした。そしてなら御理解に頂くのは御理解八節である、八節という事はこれを広げに広げて、それこそ世界の津々浦々にまでいうならばね、こういう私共は親があっての私達であるという事を、分からせて頂かねばならない。その分からせて頂く決め手になるものはです、天地の間に住む人間の生きる姿勢のね、確立を教えるのが金光教の信心であるという事をです、私共自身が分からせてもらい、そしてそれを説明が出来る位な信心を、やっぱりマスターしなければならない。
にはいよいよもって合楽理念のマスター、そして実験実証さしてもろうて、成程だ成程だと合点のいくおかげをですね、やっぱ示し現していかねばならないね。昨日私正義先生に申しました。もう有り難うて有り難うしてと、言うとるだけじゃ出けんばいち、合楽ではこれほど微に入り細に渡っての御理解を頂きよるからね、その有り難い元がこういう処から頂けてくるようになったんだという事を、話せる稽古しなければいけないと言うてま話した事ですが、お互いでもそうですね。
おかげを受けておる事実をですこういう、今日聞いて頂いたような、天地の間に住む人間の当然の事としての、いうならば信仰姿勢というか、生活の姿勢、構えですよ姿勢とはね。そういう構えをもって日々信心生活さして頂くなら、病気は治るお金に不自由する事はない、人間関係では必ずスムーズにいくという、おかげにつながって来る訳ですよね。 どうぞ。